昭和40年11月12日 朝の御理解
信心が、手厚うでけても、おろそかであっても、何とか、まあ何とかかんとかなっておりますと、何とかかんとかなっておりますと、言うこと。信心がそれは、あってもなかっても、言うならその信心が、あっても、手厚う信心がでけても、おろそかであっても、やはり、何とかなっておる。言うなら、この辺の言葉で言うならですね、鍋ん中の、どんこでも、どげんでもよか。ね、どうかなっておる。ですからそのどうかなっておるその、どうかなり、そのどう、なっておると言うそのなり方。もうどうかなっておるならそれで、良さそうなもんなんだけれどもです、どうかなる、そのなりようがです、ほんとに、おかげを頂いてなっておるということ。おかげを頂いてなっておるという実感なんです。ま、神様にお願をしとるから何とかなるじゃろうと、何とかなるじゃろうて、何とかなっとるわけ・・。もう信心がなかってもです、やはり、何とかかんとかやっていきよんなさるし、儲けだすもんなさる人もおりゃ、損しよなさる人もあるし、信心がなかっても、家庭円満にいきよる人もありゃ、喧嘩口論で毎日過ごしておられるような家庭もあるし、様々なんだ世の中は。信心それはあっても同じことなんだ。けれども信心させていただくならそこにです、その、どうとかなっておるそのなり方がです、私は、違わなければならないと思うんですね。神様におすがりをし、神様にお願いをさせていただいて、ね、不安ながらも心配ながらも、後から考えてみると、あれもおかげであったと、まあずっとおかげ頂いてきた、今日まで。と言うような、あー、ところからです、せっかく御信心を頂かせていただくのでございますから、その日々がです、日々が、はっきりおかげの中にあるなーと。神様のご守護の中にあるな、と。金光大神お取次ぎの、働きの中に、あるんだなということをです、実感させていただいて、れいなるのであり、こうなるのであるでなからなければ、私は、信心を頂いておる大体値打ちは、ないのじゃないかとこう思うのです。そこに、信心がいよいよ目細もう、手厚う、させていただかなければならんと言うことに、なってまいります。そして、その、そういうようなところに、着眼する。そういうところに、焦点を置いて、そうだと言うことが分からせていただいたらです、どういうことになると、結局私自身の信心ということになるのです。皆さんの家庭では、もう皆さん自身のこと以外にないのです。家内がまちっとこういうふうにしてくれるといいけれども、こういう経済の苦しい時に、もうその、金遣いが荒い。子供がまちっと言うこと聞いてくれるといいけれども、ね、商売が不振であれば、はあそれを、季節のせいにしたり、商売が繁盛したといや、おかげを頂いたとは、まあ言えるけれどもです、その、おかげを頂いたでは、ほんなこっちゃあない。はー今日は、だいぶ売り上げがあがっとるごた。おかげ頂いた。それを、ひっくり返して言うとです、商売が、なかったら、あのせい、このせいにするようだけれども、おかげ頂いているであってはです、それは本とのことじゃない、おかげ頂いておるならおかげ頂いておるその、実感と言うものが、おかげの中に、生き生きとして、自分の動きに中に働きの中に、変わってこなければいけん。その、おかげに対し奉ってからの、信心ができなければならん。その、おかげに対し奉っての、信心も、できんようなおかげならです、それは、例えどうかこうとか、おかげ頂きよるという、部類にすぎんのである。例えばここで、申しますなら、やはり、せっかく信心の家庭でございますし、まあ言うなら皆さんの、手本にもならにゃならんのでござますから、親にでも、家内にでも、子供達にでも、又はここで修行しておられる方たちの上にでも、少しはちった違ったましな信心せんか。ね、親先生、と呼ばれる人たちは、やはり親奥さんとこう呼ばれる。なら、親先生のお母さんであり、親先生のお父さんであり、親先生のところのご長男であり、子供さんがたであり。椛目で御信心の修行を、専念しておられる、修行生の方たちであり、なるほど、どことこ、違うような、信心にならんか、まあ、と例えば、私がそういう願いをもっておるんです。ところが、ほんとに、有難い事だなと。信心いただいておるから、親もよその親とは違う。家内も、なるほど私の家内にふさわしい。子供達も、やはりここで信心の修行しておる人たちも、なるほど、ただ、お参りをしておる人たちとは、その、信心を進めていく、着想着眼が違う。というふうにです、見れればいいのですけれども、あんた、大体ここになにしげ来とると。あんたここに信心の修行に来とるとよと。お前が教会の、この、中心の、(かっては、うけたまわっては、もうこないぞ?)と。( ? )親先生の、(笑)あんたがです、ね、お父さんよ、お母さんよと。まちっとどうとか、なららしい信心さしてもらわなならん。お前がここの跡を継がせていただく長男ぞ、その、人から若先生と言われるお前がそげなことでどうするかと。というようなことのほうが、多いのでございます。皆さんはそんなこと感じられないですか、自分の家庭の上に。ですから、そのことやはり神様におすがりするけれども、おすがりしよってもそういう不安がある。そういう心配がある。そういう要望を持っておる。一人一人。ね、ところがなかなか、思うようにならん。だからそういう、毎日を、過ごさせていただいておるのだけれどです。何とはなしに、何とかかんとか、おかげが頂けておるということ。しかしこれではいけない。私の信心が。神様におすがりをしておる、しての事であるから、ね、神様にお願をしてあっからの、そういう、言わば状態であるのであるから、何とかなるだろうというのではなくてです、そこんところを、私はカバーできる信心。その、不足とか、不満とか、又は、不安心なとこをです、カバーできる信心が、なければならない。で、一人一人にそれを、言うて聞かせたところでいけることじゃない。これは、私の家庭のことだけを申しましたけれども、ここに御神縁を頂いておる、皆さんの上の事でも同じことなんですよ。一人一人のことを、どうぞおかげ頂いてほしい、おかげ頂いてもらわんならんと思う。そういう願い持っておるのに、あんたがそういうような信心でおかげが、頂きにくいじゃないか。おかげだけはあんた( ? )していかなければ。お願いだけはする。お取次ぎだけはさせていただくから、おかげだけはあなた方が、ぴしゃっと受け止めていって下さらなければ。というのは、そういう姿勢、そういう信心で、おかげが受けられると思うかと。やっぱりそういうようなものを、皆さんが一人一人の上に持っておる。ですから、ああもしなさい、( ? )なんなさいと一々言うてもあげたいような、一人一人、言うてあげたいような気もするだけれどもです、それで聞かなければ仕方がない。そういう場合に、結局、どういうことになってくるかと言うと、私一人の信心に、どうぞ神様私が修行させてもらいますから、ね、( ? )、信心ができぬところは、受け物のないところは、私が修行させてもらいますから、どうぞ、おかげを、とこう願う。家族、家庭の上においてもそうなんです。こう思うが私の信心が足りんからなのだと。私に意欲がないからなんだと。私の思いが成就しない。言うても聞かん。これは、私の信心が足りんのだから、私が、本気で信心になる以外はない、というところにです、言わば信心にならせていただけば、例え姿は、形は同じであっても、私の心の中に、安らぎが頂けれる、安心が頂けれる。そして、どうとかなるじゃろうじゃなくてです、ね、そこのとが、おかげとして、お礼が申しあげれるようになり、お礼申しあげれるようになったら、例えば、子供なら子供が、参加するようになった。家内がまたおかげを頂きよる。というような事に、なってくる。信心は、どこまでも結局、自分自身なのである。私は、なるほど、信心させていただいておればです、何とはなしに信心しておれないことないことの違いというものがです、何ヵ月後何年の後にです、それを感じます。ただおかげを頂いておるな、という事を感じますけれども、それがどうとかこうとかなっていきよりますと、言うおかげではです、私は、今度の信心生活、さしていただく、また( ? )では信心の向上というものは、ないと思う。日々が例えば、目に余ることが沢山。あああってほしい、こうあってほしいという事が沢山。自分のことを棚にあげて、それを思い続けて、それで、おかげを頂いておるという程度であってはです、今私が申しますように、どうとかなっていきよるというおかげにすぎんのです。もちろんどうとかなっておるのもです、確かに、おかげを頂いておることだけは、( ? )、分かるんですけれども、それでは日々が、私はほんとの信心生活はできない。それでは信心は進展しない。信心は育たない。日々が、私どもの、身辺に起きてくること、一切、それを、私のことの為の、私の為の、その事であると分からせてもろうて、私が、本気で修行させてもらい、私が本気で改まらせていただく、以外にはないのであって、そういう信心から、形は変えなくてもです、そこに安心が頂けれる。安心の頂けれるところまで、私は修行しなければいけない。ね、子供は変わらない。家内が変わらない。商売の( ? )売り上げが多いかったというわけでもなくてもです、ね、それを、自分自身の、信心と、釣り合うたものであると悟らせてもろうて、ね、ほんとに、良い子であり、良い家内であり、良い親であり、私のほうで信心の稽古をしておる、修行生の方たちも、ほんとに、やー修行ができますと、と例えば、思えれれるところまでです、おかげを頂けば問題ないのですけれども、実は、目に余ることのほうが多い、それでもう自分が、イライラしておる。イライラしておりながらでも、おかげが頂けておるということ。そして、どうとかこうとかなりますが、やっぱどうとかこうとかなっていきよるけんで、というふうにです、ただあきらめたような、ことで毎日の信心が続けられておるだけであるならばです、それは信心の、進展にならない。信心を頂いておるのうちにはならない。そういうことならばです、信心がなかったらやっぱりどうとかこうとかなっていきよるということ。それをです、私どもの信心によってどうなっていきよるのであり、私どもの今日の信心によって、こうなっていきよるのであると、言うところにです、安心の持てれるところまで、私信心を、目細もう、いかにゃいけん。皆さん今日、例えば一日のことにです、例えば皆さんの、いろんな場合に、目に余るようなものを感じたり、あああってほしいというような思いがある時にはです、そちらに求めずに自分の心に、私は求めて、修行させていただく気持になられたらです、それがほんとに、言うなら正確にです、いわゆる、お取次ぎを願うた、おかげがそれに伴うてくるそのおかげをです、お取次ぎによっての働きであり、そのおかげをです、見事に、きちきちとこう、受け止めていけるれるところの、おかげになってくる。ね、そこに私は信心の、楽しみ、でしょうかね。信心させていただいておる者の値打ちでしょうか、というものが、そこにあるのであると。じゃ皆さん、何とかかんとかなっていきよります、もう何年間、心配しよりましたけれども、これは何とかかんとかやっぱおかげを頂いておりますと。と言って、なるほどおかげは頂いていきよるけれども、あなたの信心は一つも進んどらんのです、それでは。ね、信心が進んでいかなければいかん。信心が自分のものに一々なっていきよるというです、だから、信心が血に肉になっていけるというです。実感の中に、日々が( ? )いかなければ、信心いただいている値打ちが、ほんとの意味での値打ちが、ない。それでは信心を楽しむようになってこないと、いうふうに思うんですけどね。 どうぞ。
2004 7 18 加代太郎